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今昔続百鬼―雲
京極夏彦著「多々良先生行状記 今昔続百鬼―雲」

妖怪研究家・多々良勝五郎と同行人・沼上の妖怪を巡る道中物語。
典型的な巻き込まれ系の事件。

「岸涯小僧」「泥田坊」「手の目」「古庫裏婆」

小説の挿絵は難しいものだと思う。
本を読む、と人は言うけども、本を読むとは、本を目で捉え、字を目で映し、その文字を文脈を脳が理解して進むことであろう。
まず、人は本を視覚的にとらえる。
表紙、装丁である。
内容がよければよいという人もいるが、最初のイメージというのも、世界を広げる上で大切だ。
そして、表紙以上に小説の世界を広げるのは、挿絵だろう。
世界に完全に組み込まれているのだから、当然だと思うわけですが。

京極シリーズの表紙は、これまで内容をより効果的に印象づけるために、大変うまく作られていると思う。
暗く、不可解な、見慣れない和図。そこをめくるとぎっしりと詰まった文字の配列。
京極夏彦の世界観を視覚的に読者に印象付けさせ、それから始まる世界に引きずりこむ。
最初の視覚から取り込むようにしているのである。
今回のこのノベルスの表紙も同様である。物語中出てくる妖怪をおどろおどろしく配置している。
否応無く期待は高まる。

しかし、このノベルスの挿絵は、大変に失敗であろう。
これまで、表紙以外に目に訴えかける映像はみっしりと詰まった文字以外なかった。
「百器徒然袋―雨」では、挿絵があるものの、これは背景やイメージ絵で内容に触れながらも、踏み込むものではなかった。
今回のノベルスの挿絵を担当したふくやまさんの絵が、個人的に可愛らしいと捉えてしまうのもあるが、それはまだいい。
挿絵の配置がまずい。
見開きの左側に絵があれば、人は広げた瞬間、目がそちらに向く。
そして、その瞬間に文中ではまだかすりもしない死体を主人公が発見していたら、それは幻滅以外のなにものでもない。
この本を編成したものは馬鹿ではなかろうか。
正直そう思った。
小説に挿絵はあってもいいし、それが世界を広げるならむしろ歓迎すべきものだが、世界を壊すのならないほうがいい。


内容は、いつものごとく。
しかし、京極シリーズでありながら、明るさのほうが勝る。
短編はどこか明るい。メインキャラが、探偵に研究家だからだろうか。
語り口が、関口先生ではないからだろうか。
しかし本編に比べ、やけに多々良センセイの印象が変わる。
本編では、研究馬鹿であるものの、ものの道理は通っていた感じだったのに、この話では、役立たずで自分勝手なただの意地っ張りである。センセイに何があったのか。

多々良センセイの言う石燕の妖怪の見立ては、宇治拾遺の作りに似てて面白かった。
江戸時代には、言葉遊びが盛んであったのでしょうなぁ。
粋と言い訳が混じっててすごい時代だなと思います。
言葉遊びの多い話の中でも、特に「泥田坊」の二転、三転する言葉の意味取りは、楽しく切ないものでした。

名言「世の中は不思議だねぇ」
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【2005/08/04 14:47 】 | 京極作品 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
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